夫の地元、南相馬へ!地域の温かさに支えられながら、漁師として一緒に働く毎日
「平安丸」漁師 平 加奈子さん
- 移住エリア
- 広島県→福島県南相馬市
- 移住年
- 2008年
3世代続く漁師のパートナーとの結婚を機に福島県南相馬へ移住した平さん。最初は手伝いでしたが、東日本大震災や義父のけがを機に、本格的に漁へ出ることを決意。仕事のやりがいや、知り合いがいない土地での交流について語っていただきました。
目次
漁師である夫の地元、南相馬へ
2008年、結婚を機に南相馬へ移住しました。夫とは香川の旅館で仲居として働いていた時に出会いました。漁業協同組合の旅行で来ていた夫の接客を、私が担当したのがきっかけです。短い時間でしたが、お互いに気になり連絡先を交換。遠距離恋愛を始め、約1年後に結婚しました。
移住を決めたのは「好きな人の地元が南相馬だった」というシンプルな理由です。ただ、いざ移住をするとなると、家族や友達と離れることに不安を感じました。東北は旅行でも行かないような遠い場所。夫は3世代続く漁師で、地元には賃貸物件もありません。夫家族との同居も最初は少し心配でした。そんな不安を少しでもなくそうと、義両親が高齢になったときのために介護ヘルパーの資格を取るなど、前向きな気持ちで新生活への準備を進めました。
知り合いがいなくても大丈夫
南相馬は緑あり海ありで、自然に恵まれた場所です。暑すぎず寒すぎず、雪も降らないので住みやすさを感じました。夫は優しく、常に私の味方をしてくれるので、家の中で窮屈な思いをすることもなかったです。夫の妹は移住直後から仲良くしてくれて、とても感謝しています。
漁師の妻仲間のお母さんたちにも、移住後すぐの頃から本当によくしてもらいました。船着き場で夫たちが帰ってくるのを待ったり、漁師の妻ならではの話で盛り上がったり。移住して知り合いが全くいなくても辛くなかったのは、彼女たちのおかげです。
「南相馬で漁をする」―夫の想いに定住を決意
東日本大震災後は南相馬を離れ、4年ほど広島で暮らしていました。実は南相馬でずっと暮らして行こうと決めたのは、このときです。このまま広島で暮らすことも考えましたが、「南相馬で漁がしたい」という夫の熱い想いを支えたくて、原発が落ち着いた段階で、子供と一緒に帰郷することを決めました。
私が漁に出るようになったのも震災後のことです。以前は漁港で船が帰ってきたら手伝いをする程度でしたが、4年ほど前に義父がけがをしたことで、「自分が助けていかないと!」と、船に乗る決意をしました。
義父が高齢になったときに備えて船舶免許1級を取得していたとはいえ、最初は不安だらけ。それに船酔いが辛かったです。一番気がかりだったのは、義父の代わりになれるのだろうかということ。コンビネーションが大事なので、船の上での位置取りや網を投げた後の動き方などを紙に書き出してもらい、イメージトレーニングをしました。
この仕事のやりがいは、漁獲量と収入が直結しているところです。1匹も取れなかったら、収入もゼロになってしまうので、頑張ろうと思えます。夫とは、先輩と後輩のような関係です。たくさん魚が取れた日は一緒に盛り上がるし、取れなかった日には沈黙が流れることもあります(笑)。
これからは漁港を盛り上げる活動をしていきたい
私たちが拠点としている真野川漁港は、漁に出ている船数は30弱ほどですが、年間を通していろいろな種類の魚が取れるのが自慢です。働いている人は、みんな温かく仲もいい。漁師の仕事は、お互い助け合いながらやることも多いので、おおらかな雰囲気の中で仕事ができるのは、ありがたいですね。
これからやってみたいのは漁港を盛り上げていく活動です。国道から一本入らないといけないからか、この辺りで仕事をしていても漁港があることを知らない人もいます。ちょっと寂しいですよね。それでも年に一度の漁港の秋祭りでは、屋台や太鼓のお披露目もあり、結構人が来てくれます。イベントを増やしたり、飲食店ができたりすれば、もうちょっと人が増えるんじゃないかなって。料理が好きな義母と義妹も飲食店に興味があるので、いつか店を開けたらうれしいです。
(※このインタビューはふるさと回帰支援センター発行の情報誌「100万人のふるさと」2023早春号掲載の内容をWEB用に一部再構成したものです)
「平安丸」漁師 平 加奈子さん / たいら かなこ
広島県福山市出身。犬のブリーダー、動物病院勤務、旅館の仲居を経て、現在は「平安丸」漁師。夫と子供3人、義両親と暮らす。