次の世代に受け継げる暮らしを目指して 〜外資系金融機関から有機農業へ〜
農家、町会議員 森山 大輔さん
- 移住エリア
- 東京都→秋田県三種町
- 移住年
- 2013年
「次の世代に受け継げる持続可能な暮らしと仕事をつくりたい」。そう思い、外資系金融機関に勤めていた森山大輔さんは、東京都中野区から秋田県三種町に移住した。
「思っていたことに対して、80点ぐらいでしょうかね」と言いながら、移住後の充実した生活を楽しんでいる。
目次
きっかけはリーマンショック
森山さんが、地方への移住を考え始めたのは、2008年のリーマンショックだった。最先端の仕事をしながらも、金融の世界の虚しさが心をよぎった。
2011年、東日本大震災が起きて、「地に足のついた生活をして、次の世代に引き継ぎたい」という思いが込み上げてきた。
子供の頃は、父が転勤族だったので、千葉、宮城、青森などで暮らした。東北に親しみがあったので、東北方面を希望した。ふるさと回帰支援センターに足を運び、いろいろと相談した。
センター側が提案したのは、山形県川西町と長野県駒ヶ根市、秋田県三種町だった。体験ツアーに参加するなどし、それぞれの現地を訪れて検討した。その中で、三種町ではいきなり地域の人たちに囲まれ、一緒に鍋を囲むことになった。その親近感が決め手になった。
三種町は、干拓で農地になった八郎潟の北に位置する農業の町だ。
子供の学校や、生活環境など、2年かけて準備し、2013年春に移住した。当時、長女は小学3年、長男は小学1年、次男は4歳だった。初めは、移住に否定的だった夫人も、その後「面白いわね」と乗り気になってくれた。
問題は、どうやって生計を立てるか。ハローワークにも出向いたが、思うような仕事はなかった。
農業の研修を受け、野菜の加工技術も学び、本格的に農業を始めたのは2016年から。その間は、夫人が医療系の出版社の仕事をテレワークでやって、生計を支えていた。主に校正の仕事で、編集やライターの仕事もあるが、インターネットのおかげで、田舎にいるハンデは感じないという。
自然と向き合うことに戸惑う
現在は、米づくりのほか、有機野菜を栽培して、ニンジン、ミニトマト、ジャガイモなどを出荷しているが、農業自体は赤字経営で、他の仕事で赤字を補填している。
東京での生活とは正反対のことに、初めはとまどった。都会はインフラが整っていて、それの上で効率的に仕事をしている。ところが、田舎は自然が相手。「できるだけ自然に」と農薬を使わない有機農法に挑戦したが、思い通りにいかないことばかり。害虫がいても、安易に駆除できない。
「都会の仕事では普通に管理やコントロールができるが、自然に対してはそれは無理。謙虚になるしかない」
と、都会とは別物の価値観を実感している。
町会議員になって感じたこと
移住後、三種町の審議会の委員などで、町の行政に関わった。人口減少にどう対応するかも大きな問題だったが、それに積極的に動こうという人はいなかった。「だれも手をあげないなら自分がやるしかない」と2018年の町会議員選挙に立候補したが、この時は次点で落選。2022年の選挙に再挑戦して、初当選した。
「町議会は権力闘争的。そのことへのもどかしさもある」といいながら、一方で地域を運営することの手応えも感じている。
「都会はシステム的。でも田舎は、人のつながりで回っている。人の気持ちが基本。時間感覚も価値観も違う。特に過去の人の思いを受け継ぐことが大事」
と、都会との差を痛感している。
田舎の良さと難しさ
移住して11年、田舎の良さと難しさを感じている。
「秋田の人は規範意識が強い」という。古い伝統の強さだ。
一方で、コミュニティの強さを感じている。「お互いに助け合っていこうというつながりの強さは都会にはないもの」という。
一方で「次世代」は戸惑っている。
子供たちは、初めは面白がって、自然の中で無邪気に遊んでいたが、成長するにつれてスマホに興じるようになった。長女は秋田市の大学の3年生。長男は東京の大学に進学した。田舎に帰って跡を継ぐ気配はない。高校1年の次男も進学を機に家を出るつもりのようだ。
50歳になって、改めて今後を考えている。
「移住したことに後悔はない。しかし、田舎の現状には課題も多い」
という。子供が巣立った後、夫婦でどう暮らしていくかを考えている昨今だ。
(※このインタビューはふるさと回帰支援センター発行の情報誌「100万人のふるさと」2024冬号掲載の内容をWEB用に一部再構成したものです)
農家、町会議員 森山 大輔さん / もりやま だいすけ
2013年3月移住。農業と町会議員を務める。妻は医療系出版社の編集者(テレワーク)。子どもは3人。