愛媛で一番小さな町で 日本で一番幸せになる
松野町移住コーディネーター・桃農家 矢間 大藏さん
- 移住エリア
- 大阪府→愛媛県松野町
- 移住年
- 2014年
大阪の広告代理店に務め、華やかな生活を送るなかで芽生えた違和感。仕事のこと、子育てのことを考え、たどり着いたのは愛媛県で一番小さな町、松野町でした。地域おこし協力隊として移住し、現在は桃農家のかたわら町の移住コーディネーターも務める矢間大藏さんは、自分のことを「日本一幸せな地域おこし協力隊」だと言います。
目次
「田んぼをつぶす手伝いを…」 移住を決めた仕事の現場
出荷を目前に、たわわに実をつけた桃の木が並ぶ「吉兆桃園」。高台にある桃園に立つと、町が森の国と呼ばれる理由がよくわかります。ここで育てられるのは「清水白桃」。名前の通り、桃色ではなく乳白色の果皮が特徴です。果実に顔を近づけると、ふわりと甘い香りが漂いました。
矢間さんが松野町に移住し、吉兆桃園で桃の栽培を始めたのは2014年4月。「桃栗三年柿八年」ということわざの通り、移住から3年が過ぎ、桃園は初めて出荷の季節を迎えました。
大阪の広告代理店に勤務し、コピーライター兼商業筆文字士として活動していた矢間さんが就農と地方移住を考えるきっかけになったのは、皮肉にも自身が携わる仕事の現場でした。
「宅地を販売するための広告を手がけていました。キャッチコピーを考えるために足を運んだ現地で、ブルドーザーが田んぼをつぶしているのを見て思ったんです。『あぁ、自分は田んぼをつぶす手伝いをしているのか』」
もうひとつのきっかけが、幼い長女の存在。
「父の実家は高知県の西土佐にあります。小さいころは夏になると父と里帰りをして、川で水遊びをしたものです。でも、大阪の中心部には子どもを遊ばせられる川はありません。海で泳がせようと思っても電車で1時間はかかってしまう…」
都心のマンションでの生活には、身近に生き物がいません。公園でセミを見て、怖いと泣く長女の姿。記憶にある田舎の風景とはあまりに違う光景に「ここでは子どもに大切なことを伝えられない」と感じたといいます。
桃農家の担い手としての地域おこし協力隊
田畑を再生し、低下を続ける食料自給率の向上に少しでも役立ちたい。仕事を辞めて農家を訪問し、就農への気持ちを固め、故郷である宇和島市に移住相談をしたのは2013年のことでした。しかし、当時は「移住=シニア」という意識が残る時代。30代で就農を希望する矢間さんを受け入れる制度はなく、紹介されたのが隣接する松野町の農業研修制度でした。
「そこで、松野町に農業研修制度について問い合わせをしたら、農業をミッションとする地域おこし協力隊を採用すると聞かされたのです」
そのころ、松野町は県や周辺市町とタッグを組んで新たな取り組みを始めようとしていました。高級和菓子メーカー、源吉兆庵と協定を結び、和菓子の原材料になる桃や栗を提供する「吉兆庵プロジェクト」です。
桃を特産としてきた松野町にとっては大きなチャンスですが、町内の桃農家は高齢化が進み、若手生産者の獲得は急務。町は地域おこし協力隊の制度を活用し、桃農家になる人材を県外に求め始めたところだったのです。
「農業研修を受けさせてもらい、約0.5ヘクタールの園地を貸与されました。そこに植える桃の苗木が100本。就農当時は町のアグリレスキューに農作業を手伝ってもらいました」
協力隊の任期である3年間は農機具も貸与されるなど、町からの手厚い支援のもとに始まった就農への道を、矢間さんはこう振り返ります。
「ここまでしてもらって、文句を言ってはいけない。やらねばならない。そんな気持ちでした」
都会に捨ててきたつもりのスキルが活きた
3年後に桃農家として就農することをミッションに始まった地域おこし協力隊としての生活。しかし、活動は農業だけにとどまりません。町内に10ある集落のイベントやお祭りに参加し、町の歴史に関する情報も発信しました。
地域おこし協力隊は町の森の国創生課(現ふるさと創生課)に所属します。移住定住のほか、地域づくりやふるさと納税など幅広い分野を所管する部署に籍を置いたことが、農業外の分野にも携わるきっかけになったといいます。
そして、意外にも多くの依頼が寄せられたのが、コピーライティングや筆文字の仕事。町内イベントのチラシや行事の看板に筆文字を書くと、知名度が上がり次の仕事が舞い込むようになり、最終的に、県の移住定住促進事業のキャッチコピーなど町外からも仕事の依頼が入るようになりました。
「大阪に捨ててきたつもりのコピーライター、筆文字のスキルを活かすこともできたのは、驚きでした。でも、農業研修生という立場なら、こうはならなかったと思います。協力隊だったから『こんなことやっちくれや』と声をかけやすかったんでしょうね」
一方、活動が広がったための反省点もありました。
「色々なことをやりすぎた結果、畑に手が回らなくて、農家の大先輩から怒られたこともあります」
でも、ピンチを救うのも町の人。6月、桃を虫や鳥から守る袋掛けをしていたときのこと。桃園に2台の軽トラが止まり、町の男性3人が降りてきたそうです。そして、「大変らしいのう、手伝っちゃらえ」と言って黙々と袋掛けをしてくれたといいます。
課題解決はしない 外で松野を褒める理由
「僕は、おそらく、日本で一番幸せな地域おこし協力隊だと思います」
2017年3月、松野町の地域おこし協力隊卒業成果報告会の席上、3年間の任期を振り返り、矢間さんはこう切り出しました。「おそらく」がつくのは、全国津々浦々の地域おこし協力隊員に会ったことがあるわけではないから。
7月の取材時に改めて、「日本一幸せ」の理由を聞いてみました。
「少なくとも自分が出会ったなかで、僕より幸せそうな協力隊を見たことがないんです。3年間、前向きな意見を言うことはあっても、どうしようもない壁にぶつかって不平不満を言った記憶がありませんから」
もう一つの理由は、会場となった町のホールに集まった多くの町民へのメッセージだったといいます。
「少なくとも、この点では松野が日本一の町になれるわけです」
この言葉の背景には、協力隊として活動するうえで、矢間さんが心がけたことがあります。
「代理店時代は、課題解決という言葉をよく使いましたが、松野では使わないと決めていました。課題解決というのは『悪いところを見せて、直そう』ということですよね。そうではなく、『良いところを見せて、気づいてもらう』ことが大事だと思ったんです」
直接、町の人に良いところを伝えるのはもちろんですが、矢間さんは町外に出ては「日本一幸せだ」「松野はいい」と言い続けてきました。2017年7月からは隣接する宇和島市のコミュニティFMで週に1度、ラジオ番組「ワッツアップ!まつの」のDJも務め、町の情報を全国に発信しています。
なぜ、町外で松野を褒め続けるのか。答えは簡単でした。
「僕が松野を褒めたら、よその人が松野の人に言うでしょう。『松野は良いところだね』って」
手垢のついていない、これからの町
愛媛県で一番小さい町というのは、面積のことではありません。4000人あまりの人口は県内20市町で最少。愛媛県では平成の大合併で70市町村が20市町になりましたが、松野町は合併せず、単独で生き残る道を選びました。
小さいからこそのメリットもあります。移住コーディネーターとして全域を把握でき、就任から3ヶ月ほどで、町内の空き家をほぼまわることができました。役場の規模も小さいために意思の疎通が図りやすいといいます。
公園でセミを見て泣いた長女は、大阪のマンモス校から同級生が4人の小学校に転校し、「何百人もいる児童の1人ではなく、1人1人として見られるようになったことで、責任感が強くなり、勉強のやりがいも増した」そうです。今では、ドジョウを捕まえて遊ぶ立派な田舎の女の子になりました。
高知県境の山間にあり、企業はほとんどありません。県庁所在地の松山市からは車で約2時間。決して便利とはいえない地域ゆえ、県外からの移住者はまだ数えるほどです。
「『息子でさえも帰ってこないこの町によそから人がくるはずがない』と考える人もたくさんいます。コーディネーターとして、外に向けて情報発信をする一方、町内に向けて『この町をどうしていくか』を問いかける存在にならなくてはいけないと思います」
一方で、松野の町民性はおおらかで、外に向けて開かれ、移住者をはじめ、外から来た人に「任せよう」という機運も強いといいます。そんな町を矢間さんは「手垢がついていない、これからの町」と言います。
「松野にはたくさんの“資源”が眠っていて、町の人はよそ者に期待をしている。その証拠に、農業の経験がない僕が、100本の桃の木のオーナーになれたんです。この“資源”を掘り起こすのは早いもの勝ちですよ」
最後に、松野に移住をすると「日本一幸せ」と言えるようになるのか、尋ねてみました。
「『日本一幸せ』というのはね、僕の商標みたいなものですよ。だからね、軽々しく真似してほしくないの」
ニッと笑って、矢間さんは続けます。
「でもね、ここでの暮らしを面白がれるか、感動できれば大丈夫。暗く受け止めなければ、何があっても何とかなるんですよ」
松野町移住コーディネーター・桃農家 矢間 大藏さん / やざま だいぞう
愛媛県宇和島市出身。和歌山県の大学に進学し、卒業後は大阪府の広告代理店に就職。コピーライター兼商業筆文字士として活動した。
2014年4月に地域おこし協力隊として愛媛県松野町に移住。3年間の任期を終えた2017年4月より町の移住コーディネーターに就任。