1300年の歴史をもつ美濃和紙の郷へ
紙漉き職人 寺田 幸代さん
- 移住エリア
- 神奈川県→岐阜県美濃市
- 移住年
- 2013年
ユネスコ無形文化遺産に認定された美濃和紙(みのわし)で栄え、「うだつがあがるまち」として知られる岐阜県美濃市。中心部にある、紙問屋が立ち並ぶうだつの街並から板取川(いたどりがわ)に沿って車で15分ほど上ると、美濃和紙を生産してきた紙郷・蕨生(わらび)地区にたどり着きます。かつてはほとんどの家が紙漉きに携わり美濃の繁栄を支えた、この山と水の美しい里山の集落。川沿いにある小さな工房に、竹簀(たけす)を上下、左右に揺らして粛々と紙を漉く若き女性の姿がありました。神奈川県横浜市出身の寺田幸代さん。美濃和紙職人・澤村正さんのもとで修行を始めて、4度目の冬が近づいていました。
目次
やりたいことをやる、伝統工芸への決意
「昔から紙でものを作るのも好きだし、集めるのも好きだった」という寺田さん。ものづくりに関する仕事をいくつか経験した後、30歳になったのを機に「やりたいことをちゃんとやろう。日本人に生まれたからには伝統工芸の仕事に携わりたい」と決意。紙漉きと伊勢型紙の産地をいくつか回り、直感的に「一番縁を感じた」美濃の門を叩きました。
しかし弟子として受け入れてくれるところがなかなか見つかりません。というのも、最盛期は5000戸以上あった紙漉きの家は現在20軒までに減少。しかも職人のほとんどが70歳以上。紙で生計を立てるのも難しく、給料を払えない等の理由で、弟子を受け入れてくれる工房は少ないのです。
半年待った末、やっと現在の師匠である澤村正さんのもとで修行をさせてもらえることが決まりました。「私は師匠が80歳を過ぎてからの弟子なんですよ。師匠も思い切ったなあって思いますね(笑)」
厚みやサイズ、用途など、紙の種類が多い美濃和紙は、家によって漉いている紙が異なります。当初は障子紙を漉きたいと考えていた寺田さんですが、弟子入りできればどこでも良いとも考えていました。
「偶然にも、師匠は障子紙専門なんですよ。全国でも障子紙を専門で漉いているのは正さんくらい。本当にたまたまなのですけどね。来るべくしてきたみたいなところもあるのかもしれないですね」
「紙漉きは力仕事。本当にオール力仕事です(笑)」
弟子入りがかなったものの、当初は給料がなかったため、他でアルバイトをし、仕事が終わってから紙漉きに取り組みました。
「最初は、紙を干す作業や“ちりとり”から始めました。師匠が漉き終わって少し薄くなった液を使って漉く練習をして、半年くらい経ったころから少しずつ本番の紙を漉かせてもらえるようになりました。最初は使えないものの方が多かったですけどね」
師匠である澤村正さんは現在86歳。1969年に国の重要無形文化財に指定され、2014年にはユネスコの無形文化遺産にも登録された「本美濃紙」を漉く技術を持つ数少ない美濃和紙職人の一人。15歳から紙漉きを始め、紙一筋70年。京都の迎賓館に使われている障子紙はすべて澤村さんの手によるものです。
「師匠の紙は本当に上品なんです。迎賓館の作品も観に行きましたが、本当にすごい!普通に漉くだけでも大変なのに、あんなにしなやかにできないですよ。同じ材料、道具を使っているのに、仕上がりが全然違う」
澤村正工房では、昔ながらの道具を使い、10ある制作行程のうち9割を昔のままの方法で行っています。材料の楮(こうぞ)を煮る際も薪で行い、木槌で繊維を潰す。竹簀を使って一枚一枚丁寧に手作業で紙を漉いた後は、畳ほどある大きな木の板に貼って、天日干しにして乾燥させる。全ての行程に手間がかかり、重労働です。
「私は運動が好きではなかったのに、30歳からこの仕事を始めたので、からだが本当に疲れて大変でした。最初は筋肉痛が痛すぎて寝られなかったんですよ。いままでの洋服も着られなくなるくらい筋肉がついちゃって」
少しでも風があると作業がしにくいため、作業中は扇風機が使えません。楮をさらす水も、冬は凍てつくような冷たさです。「この水は湧き水なのでまだましなほうです。冬も辛いですが、夏の方が大変ですね。汗が止まらなくて」
それでも、やめようと思ったことは一度もないという寺田さん。
「自分の好きな仕事なので、楽しい方が大きいです。20代で来ていたら、辛くなって帰っていたかもしれないですけど。10年働いていたので、仕事の大変さは予想できていたし。師匠には常々、『お前はあと10年早く来れば良かったのに』って言われるんですけど、『このタイミングできたのはベストだ』って、私はいつも言っているんですよ、体力的には厳しいですが」
最も楽しいと感じるのは、紙がうまく漉けた時。
「派遣などで働いた時は、この仕事を覚えて、自分にとって何になるんだろうって思うことがあったんです。でも今は、やればやるだけ自分の糧になっていく。紙の質が悪いのも、紙が売れないのも自分の責任。よくできたら自分が頑張ったから。結果が分かりやすいことが本当楽しいですね。覚えがいがあるというか。それが楽しいです」
新たな環境で、新たな自分を発見する
横浜で暮らしていた時は、引っ越しをしても隣の人に挨拶にもいかないし、誰が住んでいるかも知らない生活だったと言います。
「人数は少ないけれど、こっちの方が人とのふれあいは多いですね。私はあまり人と話すのは好きではなかったし、家でぼーっとしている方が好きでした。今は川にバーベキューに行こうとか、イノシシを捕ったから一緒に食べようとか、誘いが多いので、しょっちゅう出かけていますが、これが意外と楽しいなと。新たな自分を発見した感じです」
寺田さんが移住する前から、美濃市は30代の移住者が増えてきていたこともあり、地域の人は友好的で、すぐに打ち解けられたといいます。
「私は永住する気満々で移住してきたので、ちゃんと足場からつくっていきました。こっちの人はあまり自分からは話しかけてこないんです。シャイなくせにすごく見てくるんですよ(笑)。だから第一歩をこちらから行けば、すごく話しかけてくれるようになるんです」
自分の工房を持ち、障子紙の使い方を伝えたい
現在、自身の工房の立ち上げに向けて準備をすすめる寺田さん。作業場にはワークショップスペースを併設し、そこで紙の魅力を伝えていきたいと話します。
「私は障子紙を漉いているんですが、実際に障子のある家は減ってきています。なので、障子紙でこんなものも作れるんだよっていうこと、いろんな人に伝えたい。工房を作ったら、そういう活動をしていきたいと思っています」
もともとものづくりが得意な寺田さんは、イベントで自ら漉いた障子紙で作ったコサージュやピアスを販売したり、近所のカフェの暖簾をつくったりと「アイデアはたくさんある」と目を輝かせますが、「でも、まずは一人前になること」と気を引き締めます。
紙漉きは「精神統一みたいなところがある」(澤村さん)そうですが、最近の寺田さんは工房の準備で忙しく、「精神的に乱れていると、紙も乱れるという悪循環に陥ってしまいます。ちょっとの動きとか、ちょっとのことで全然違う仕上がりになるので、本当に奥が深いです。70年やっている師匠が、自分は今でも1年生っていうんです。一生卒業できないなあ」
いくら想像しても、絵に描いた餅。住みたいなら、来てみるのが一番。
最後に、伝統工芸という新しい世界に飛び込んだ寺田さんに、これから新たな世界に挑戦したいと考えている人へのアドバイスを伺いました。
「とりあえず1週間くらい、来てみた方がいいんじゃないかと。雰囲気であったり、土地の人であったり、店がこれくらいある、ないとか、実際足を踏み入れないと分からないことはたくさんある。そこに住めるかどうかはインスピレーションで分かると思うんです。だから住みたいと思ったら、まず来てみることです。街を歩いてみる。近所の人と話してみる。実際いくら想像しても、絵に描いた餅なんですよね」
寺田さん自身も実際に来て、田舎のイメージが変わったそうです。
「何にもないから住みにくいのかなと思いがちなんですけど、この辺の人は車を絶対持っているので、どこに行くにもドアtoドア。都会で住んでいて電車に乗るより生活しやすいのが、逆に私はびっくりしました。駅まで重い荷物を持って歩くより、車に全部積んじゃえば良いし、意外と思っているより住みやすいんじゃないかな」
民間の賃貸物件が少ない田舎では、外から住むところを探すのは難しいけれど、実際に来てみると見つかることもあります。寺田さんも美濃に来て、知り合いの家にシェアさせてもらいながら、家を探したそうです。
「すぐに家を見つけるのは難しいですよね。空き家の紹介などを行っている『NPO美濃の住まいづくり』などもあるんですけど、私が来た頃はまだ物件が少なくて。美濃は紙漉きをしている人に対しての信頼があるし、顔も広くなるので、紙漉きをやっているというと貸しても大丈夫かなと思ってもらえるような気がします。」
まずは一歩踏み出してみること。インタビュー中、何度となく「楽しい」と繰り返す寺田さんの笑顔も、すべて一歩から始まったのです。
紙漉き職人 寺田 幸代さん / てらだ ゆきよ
神奈川県横浜市生まれの横浜市育ち。小さい頃から紙とハンドクラフトが好きで、高校卒業後は、ものづくりに関するアルバイトを複数経験する。30歳になったのを機に、「好きな紙に関する伝統工芸に携わりたい」と一念発起。2013年3月より、岐阜県美濃市蕨生(みのしわらび)にある澤村正工房にて紙漉き(かみすき)の修行を続ける。